出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メルセデス・ベンツ
(
Mercedes-Benz
)は、
ドイツ
の
自動車
会社、
ダイムラー
(2007年?)が所有する
乗用車
、
バス
、
トラック
のブランドである。ドイツ語での発音をできる限り正確にカタカナ表記すると、
メアツェーデス・ベンツ
に近い。
[
編集
]
概要
1926年
(
大正
15年)のほとんど同時期に設立された世界最古の自動車会社である、
ベンツ&シー・ライニッシェ・ガスモトーレン・ファブリーク
(
1883年
-
1926年
)と
ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト
(
1890年
-
1926年
)で
1900年
から使用されていた「メルセデス」を始まりとし、その後
1926年
の合併により、正式に「メルセデス・ベンツ」ブランドがスタートした。
以降、社名は
ダイムラー・ベンツ
(
1926年
-
1998年
)、
ダイムラー・クライスラー
(
1998年
-
2007年
)と変更されるも、
ブランド
名の変更はない。
現在も
ドイツ
、
シュトゥットガルト
を拠点に、乗用車と商用車を「メルセデス・ベンツ」のブランドで展開している。
[
編集
]
乗用車
日本においては、高価格帯の車種を中心に輸入するブランド戦略により高級乗用車の代名詞とも言えるイメージが定着しており、
高級車
専業メーカーと誤解されがちであるが、
欧米
では
トヨタ
や
ボルボ
、
ルノー
と並んで、
タクシー
や
大型
バス
、大型
トラック
などの
営業車
・
商用車
、そして乗用車では
高級車
から
大衆車
まで幅広く生産する
自動車総合メーカー
として認知されている。
フラッグシップ
である
Sクラス
など高級
セダン
や高級
SUV
は、富裕層のステータス性を象徴する乗用車の一面として、日本でも医師や経営者、芸能、テレビ関係者、スポーツ選手等の高所得者が好む車の代名詞として知られている。 これらの反面、
マフィア
や
暴力団
、武器商人や犯罪収益者、
成金
的など、畏怖やいやらしく趣味の悪いなどのイメージとして表象されることも多くある。
冷戦
時代においては西側の自動車会社にもかかわらず、東側諸国の外交官の利用も多かったため、「
ペルソナ・ノン・グラータ
向けの車」と揶揄されることもあった。
日本で販売されている車種の新車販売価格は、約260万円台(
Aクラス
) - 5,700万円台(
SLRマクラーレン
)であり、すべてのクラスにおいて、国産車で同じ排気量を持つ車種の1.5倍以上の価格設定である。 もっとも販売台数の多い代表的な車種として、
Eクラス
(700万円台から)などがあり、これは日本の世帯年収の平均を超えた価格設定となっている。但し
レクサス
や
インフィニティ
ブランドなどと競合し、
輸入車
という概念も無い北米では5万ドルからと割安であり、その他の車種でも日本の3分の2前後の価格設定である。
2006年
の販売台数クラス別ランキング(世界)では、1位はEクラス(700万円?)、2位は
Sクラス
、3位は
Cクラス
、4位は
Bクラス
である。
CAR and DRIVER誌
が東京・
青山通り
で行なっている車種別の通行数ランキングでは、
カローラ
などの大衆車を押さえ、Eクラスが1位の常連となっており、登録・使用本拠の地域的な偏在が大きいことも特徴となっている(
社有車・社用車
としての登録も多いため)。
[
編集
]
商用車、営業車、多目的車
バス
や
バン
、特殊車両なども含めた商用車の主な市場は、
ヨーロッパ
のほか、
中東
、
アジア
、
中南米
諸国などである。
北米
では、商用バン「
スプリンター
」が
バッジエンジニアリング
を受け、
クライスラー
から「
ダッジ
・スプリンター」として販売されている例がある。また、韓国の
雙龍自動車
への技術供与を行い、商用バンMB100をベースに
イスタナ
を生産。MB100と共に
東南アジア
圏などで広く使用されている。
日本ではダイムラー子会社のバスなどを
三菱ふそうトラック・バス
が販売、多目的商用自動車である
ウニモグ
を
ワイ・エンジニアリング株式会社
が販売している。
[
編集
]
その他
エンジンやトランスミッションを他社に供給するサプライヤーとしての一面も持っており、かつて
ポルシェ
や
ジャガー
に自社製の
AT
を供給した実績がある。
また、現在は日本でも
日立建機
が大型ダンプ用のディーゼルエンジンの供給を受けている。
[
編集
]
来歴
[
編集
]
成り立ち
Benz Patent Motorwagen 1886 (Replica).
The world's first true automobile
.
1886年
にドイツの技術者、
カール・ベンツ
によって創設された世界最古の自動車メーカーの一つ。
1886年
に世界初の
自動車
として初の
特許
を取得している。しかし当時は、自動車の有用性に気が付く者は無く、当時の
交通
の主役であった「
馬
を怖がらせる邪魔者」的な存在であった。
そうした中、カール・ベンツの夫人である
ベルタ・ベンツ
は、夫の発明がすばらしいものであるということを何とか世間に認めてもらいたいと考え、あるアイデアを実行に移す。
1888年
(
明治
21年)
8月5日
、夫カールがまだ寝ている間に、二人の息子と連れ立ち自動車に乗り、
マンハイム
の町を出発した。当時の道は、当然
舗装
されたものではなく、また空気
タイヤ
もまだ
自転車
用が発明されたばかりだっため、自動車用は存在せず、その過酷さは余りあるものだった。さらには、
ガソリンスタンド
なども無いため、
ガソリン
を
薬局
で購入するなどして旅行を続けた。やがて陽の暮れる頃、106km離れた
プフォルツハイム
の街に到着する。
疲れ果てたベルタと息子たち、そして自動車の回りに町中の人たちが集まり、ベルタたちに惜しみない賞賛の声が送られた。この
速度
(距離と時間)は、当時の
馬車
で10頭以上の馬を乗り換えなければならないほどのものだったのである。これらの成功により、ベルタの当初の目論見は達せられ、その後カールの発明は広く知られるようになった。同時に、ベルタは世界初の女性
ドライバー
であり、世界初の
自動車長距離旅行
として歴史に名を残すことになる。
1920年代
より、当時
ヨーロッパ
で盛んになっていた
モータースポーツ
に積極的に参戦し、数々の好成績を収めその名声を確固たるものにした。
その後、ベンツと殆ど同時期に
ゴットリープ・ダイムラー
が創設したダイムラー社と、
1926年
(
大正
15年)に合併する。
[
編集
]
ナチスへの協力
ナチス
の創設者で
ドイツ
の指導者であった
アドルフ・ヒトラー
は、政権獲得後の
1933年
(
昭和
8年)
2月11日
、国際
ベルリンモーターショー
における開会宣言で新時代の交通機関である自動車と自動車道路の建設に注目し、
モータリゼーション
を加速することが国家の防衛力を高めることになると説いた。これ以降政府は
自動車税
の撤廃、
アウトバーン
建設、
国有鉄道
に
トラック
輸送部門の新設等の政策を打ち出した。
ナチスは、党内に
国家社会主義自動車隊
(
NSKK
)を設け、運転技能者育成を始める。ベンツは運転教官の派遣、
教習車
の無償提供、
国家社会主義ドイツ労働者党
機関への役員の派遣等で積極的に対応し、
国家社会主義ドイツ労働者党
の強力なバックアップにより、
グランプリ
・レース、
ル・マン24時間
や
ミッレミリア
などのレースで同じくバックアップを受ける
アウトウニオン
などとともに活躍した。
また、
1935年
(
昭和
10年)
ドイツ再軍備宣言
以降のドイツの軍備拡張を支える企業として、
戦闘機
の
エンジン
や
軍用車両
などの生産を行う。
1939年
(
昭和
14年)
9月
に勃発した
第二次世界大戦
中は
軍需
生産に集中して、
連合軍
の
爆撃
の標的になるなどして、ドイツの
敗戦
までの約6年間に壊滅的な損害を受ける。また、大戦中に
ユダヤ人
や連合軍の
捕虜
を大量に
強制労働
者として使用した事から戦後多額の
賠償
を行うことになった。
[
編集
]
名車
その後、
1950年代
以降の
ドイツ
経済の回復に合わせるように、
ミッレ・ミリア
や
ル・マン24時間レース
で大活躍した
300SLR
や、
石原裕次郎
や
力道山
の愛車として有名な
300SL
などの数々の名車を送り出す。
その後も
1960年代
後半に発売された
ミディアム・クラス
(現在の
Eクラス
)や、R107SL、「サッコプレート」で有名な
ブルーノ・サッコ
の手による、W124(このときからコンパクトクラスが「E」クラスと呼ばれる)、また、ドイツの
ヘルムート・コール
首相
の専用車であった
W126
(クーペの「SEC」は「C126」)、そしてアメリカのCAFE対策で生まれたW201(通称190E / 現行W204
Cクラス
につながる)、などのヒット作を市場に送り出し、
高級車
市場での存在感を持ち続けている。
またこれらのモデルのシートは、世界でも唯一の高品質な構造と評されており、非常に快適なことで知られる。下からコイルスプリング、網状のスプリング、ウレタン製ダンパー、椰子繊維と馬の毛で作った通気性の良いクッション、ウール製の表皮(ベロア、ファブリック)で構成され十分なサイズと調整機能(電動調整式が多い)があり、滑らず疲れにくく、耐久性も著しく高かった。しかし最近の車種では後述のようにコストダウンの影響で、品質の低下が見られる。
[
編集
]
安全性
1980年以降、オプション装備としての
エアバッグ
設定で先行するなど、自動車の安全向上に関わる実績がある。またジグザグ形状のゲート式ATシフトレバー(現在特許が切れて、多くの自動車メーカーにより模倣されている)、衝撃吸収三叉式構造ボディ、シートベルトテンショナー、レインランネル(雨水を窓に流さないボディ構造)、凹凸のあるテールランプ、衝突時に体を守るステアリングコラムとブレーキペダル、横滑り防止装置、グリップ式ドアハンドル、本体強度、取り付け強度共に高い独自のシート、伸縮しながら窓を拭くワイパー、2速発進及び2速後退機能つきAT、安全性を徹底追求したシャシ、
アウトバーン
における高速度での事故に対応した車体剛性など等枚挙に暇がないほどである。
[
編集
]
コストダウンとその弊害
かつては「
Das Beste oder nichts
(最善か、無か)」の企業スローガンの元、「全ての形に理由がある」と言われるほど質実剛健
[
要出典
]
であり良い意味で
過剰性能
・品質であったのだが、
1990年代
中盤以降の利益率向上を目指したコストダウンによって、市場に迎合し単なる高額ブランド商品的な製品が多く見られるようになった。
特に
1997年
に発売されたメルセデス・ベンツとして初の
アメリカ
工場(
アラバマ州
)で生産されたMLクラスは、
設計
の悪さと品質の低さで「
アラバマ・メルセデス
」と酷評され、全世界における
ブランド
イメージを大きく落とすことに一役買う結果になってしまった。また、先代Sクラス(W220)及び先代Eクラス(W210)が登場した際、古くからのメルセデス・ユーザーが代替した直後、乗り味や質感の違いに先々代の新車(Sクラス:
W140
、
Eクラス:W124
)(W124の500E初期(1991/1992年)モデルはポルシェのラインを使用した生産)への交換を要求するなどのことが発生した。
これらのことにより、1990年代後半では「
Das Beste oder nichts
(最善か、無か)」時代に発売された車種が、その信頼感から、一時的に中古車市場で品薄となり、装備や程度の良いものが新型車よりも高値となるなどの事例も発生した。
これらの問題に対して、メルセデス・ベンツは、各車種のイヤーモデルごとに品質の改善を進め、1998年デビューの後期型Cクラス(W202)や1999年デビューの後期型Eクラス(W210)での品質改善、
2000年代
以降のモデルであるEクラスやSLクラス、SLKクラスなどでの初期設計からの品質改善などをすすめた。
また、以前と比べて補器類やゴム部品などの交換耐用年数も大幅に伸びて、
高年式
になるとメンテナンスに手間と金額が掛かる車ではなくなった。特に2005年以降のイヤーモデルでは、新Sクラス(W221)の発売や最販車種であるEクラスの各種リコールによる問題部分の変更がすすみ、品質の安定と故障率の低下を実現している。
しかし、近年のコストダウンの最たる物はシート構造である。従前の
椰子
(
シュロ
)のクッション+金属ばね(以前のコイルばね、その後のSばね)を発泡ウレタンに変更してから、長年のユーザーから、明らかに快適性が劣るとの評価が多い。しかし、旧来のシートはバウンシングの際の座面の上下動が大きく、ドライビングポジション(特に各ペダルとの位置関係)が一定しない短所もあり、高エネルギー時のホールディング能力や、
プリテンショナー
付きシートベルトとの親和性が高い点など、衝突を含めた安全性では新世代のシートが勝っている
[
編集
]
リコール
1997年
に登場したAクラスが、
北欧
の
自動車雑誌
による“エルクテスト”と呼ばれる危険回避の運転操作の際に横転し、「メルセデス・ベンツにあるまじき失態」と世界中で報じられることになった。その後メルセデス・ベンツは発売した全てのAクラスをリコールし、
ESP
を装着するなどの改修を実施したものの、この事件は世界中の
メディア
が取り上げ、同時期に発売され、設計の悪さと品質の低さで酷評されたMLクラスの失態と並んで報じられたこともあり、大きく評価を下げることになってしまった。
さらに、2004年から2005年にかけて発生した、
ボッシュ
製SBC(センソトロニック・ブレーキ・コントロール)の2度に渡るリコールは、主力車種である
Eクラス
と看板車種の
SLクラス
で発生し、安全を最も重要なブランドイメージとしている、「メルセデス・ベンツ」にとって大きな痛手となり、経営を極度に悪化させる原因となった。
このSBCは、雨天時などの走行でブレーキディスクが濡れ、通常であれば制動力を損じてしまうようなケースでも、意図的にブレーキバットをブレーキローターに僅かに接触させ、摩擦熱でディスクを乾かしたり(
鉄道車両
では、「
耐雪ブレーキ
」などで以前から使われている制御)、アクセルペダルを放した瞬間、ブレーキングにそなえてブレーキバッドをブレーキローターに接触寸前まで近づけ、タイムラグを短縮するなど、ブレーキの応答性と能力を高めるものである。しかしそのセイフティープロセスの要である
センサー
類の不具合によりSBCが作動せず、通常の約5倍の踏力を必要とする「バックアップモード」に入るというものであった
[1]
。
なお、2005年8月以降に発売された
Eクラス
、
SLクラス
では各種リコール対応により十分な信頼性の確保が行われたが、イメージ的な判断であったのか、マイナーチェンジ後はこの装備がなくなっている。この年のアメリカでの信頼性調査では、メルセデス・ベンツは37ブランド中29位、ジャーマン・オートモービル・グラブの顧客満足度調査では、33ブランドのなかで最下位だった。
[
編集
]
ハイブリッド車
2007年11月、
ダイムラー
は子会社である
三菱ふそうトラック・バス
が持つハイブリッド技術を流用したディーゼル・トラックを、2008年中を目処に同社の
メルセデス・ベンツ
ブランドから発売するとの計画を発表した(
『産経新聞』2007年11月12日
)。 2009年2月、10月をめどに、Sクラスへの
ハイブリッド車両
の導入を行うことが発表された。
[
編集
]
逸話
[
編集
]
メルセデス
「メルセデス(
スペイン語
で『慈悲深い人』という意味)」という名前は、命名された
1899年
当時、ダイムラー車のディーラーを経営していた
オーストリア・ハンガリー帝国
の
領事
、ユダヤ系ドイツ人エミール・イェリネック(Emil Jellinek)の娘の名前である。「ダイムラー」という硬い響きを持つ
ブランド
ネームを避け、当時流行していた
スペイン
風の響きを持つ名前をあえて選んだと言われている。「メルセデス」ブランドは非常に有名になったこともあり、ダイムラー・モトーレンは
1902年
、メルセデスを商標登録した。なお、欧米では一般に「メルセデス」「メルセデス・ベンツ」と呼ばれるのに対して、日本では「ベンツ」と呼ばれることが多い。
自動車評論家の
徳大寺有恒
や、作家・評論家の
五木寛之
の著書、一部の
自動車雑誌
においては「
メルツェデス
」という表記が用いられることがある。
[
編集
]
エンブレム
メルセデス・ベンツの車体に輝くエンブレムは、合併前のダイムラー社が使用していた
スリーポインテッド・スター
とベンツ社の円形月桂冠とを併せデザインされたもので、3点にはそれぞれ「陸・海・空」の各分野でダイムラーベンツ社の繁栄が込められている。
[
編集
]
シルバー・アロー
メルセデスのセダン、クーペ、オープンカーでは、銀色のボティがもっとも人気高い。この理由のひとつとしてあげられるのが、「シルバー・アロー」の逸話である。
1934年
-
1937年
のグラン・エプルーブ(現在のF1世界選手権に相当)、グランプリ・レースは、後に「750kgフォーミュラ」と呼ばれることとなる、車重を750kg以下とするレギュレーションで実施されていた。
1934年のニュルブルクリンクにおける
アイフェル・レンネン
(アイフェルレース)前夜、車両重量規定をわずか1キログラムオーバーしてしまったメルセデス・チーム(監督は
アルフレート・ノイバウア
)は、苦肉の策としてボディーの純白の塗装をすべて剥がすことを決断する。
一晩かかって塗装を落としたアルミむき出しの銀色のボディーに、直接ゼッケンを貼り付けてレースに参戦、そしてこの車を駆るマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが優勝する。
それ以降メルセデスのレーシングカーは銀色がトレードマークとなり、「シルバー・アロー」の愛称で呼ばれるようになった。また、これ以降ドイツの
ナショナルカラー
も、それまでの白色から銀色とされた。
同時期に活躍した、
アウトウニオン
も同様に銀の塗装で「シルバー・フィッシュ」と呼ばれ、第二次世界大戦の勃発する1939年まで、シルバー・アローとシルバー・フィッシュのドイツ勢が、グランプリを席巻するのである。
[
編集
]
日本における販売
日本における販売台数は、4万9,713台(2006年、
日本自動車販売協会連合会
)である。内訳は、1位:Eクラス 9,639台、2位:Sクラス 8,078台、3位:Cクラス 8,042台、4位:Bクラス 7,189台、5位:Aクラス 5,157台(2006年、
日本自動車輸入組合
)など。
長年にわたる
ヤナセ
の販売戦略により、「高額」・「高級」というイメージが先行して浸透している。また
浜田省吾
の「money」という楽曲の歌詞には、金持ちの象徴として
ドン・ペリニヨン
とともに引用されている。
[
編集
]
乗用車
正規
ディーラー
として長年取り扱ってきた
ヤナセ
と
[2]
、
1990年代
以降にスタートしたシュテルン(現メルセデス・ベンツ店)での取り扱いが行われている。
バブル景気
末期の
1980年代
後半から1990年代前半にかけて、一部の三菱
ギャラン店
で販売されていた事があった。現在も三菱系ディーラーがメルセデス・ベンツ店を運営する場合もある。またシュテルン店の母体の一部には
トヨタ
や
日産
などの国産車ディーラーの子会社が運営しているところもある。このほか、
並行輸入
がいくつかの輸入業者によって行われており、正規輸入ディーラーでは取り扱っていない車種やオプションの組み合わせを購入することが出来る。
[
編集
]
メルセデス・ケア
1998年4月以降(AMG、Gクラスは6月以降)に、正規販売店で新車を購入した場合、3年間の無料保障と故障や事故時に「24時間ツーリングサポート」を受けることが出来るサービス。
特徴的なのは、一般的な故障などのほか、ワイパーブレード、オイル、ブレーキパッド、ブレーキディスクなど一部ではあるが消耗品も無料交換の対象となることである。車検整備にかかる費用及び車検取得に必要な諸費用は含まれない。
ただし、メルセデスの輸入販売の老舗であるヤナセにおいては、この制度によりアフターサービスのレベルが向上したと言う訳ではない。同レベルのケアが昔から行われていたことは、1990年代前半よりも前に新車を購入した様な、古くからのユーザーでなければわからないことである。
[
編集
]
欧米出荷モデルと日本モデルとの違い
欧米の正規代理店で購入できる車種と、日本国内の正規代理店から購入できる車種で、装備や内装などに違いがあることがある。販売戦略によるケースが大部分である。
-
他の高級車に装備されたり、欧米での購入時には対応できるもので、国内購入のメルセデス・ベンツに装備されないものの一例
-
HDDカーナビ:一部の車種で非対応。尚、Cクラスでは
W204
からHDDナビゲーションシステムを採用しており、現在非対応の既存のモデルも今後はモデルチェンジに合わせて対応を進めるものと思われる。
-
オートクルーズコントロール:前車との位置関係により自動的に加減速する装置であるが、日本ではSクラス、SLクラス、CLクラス、CLSクラス、GLクラスのみ対応。なお、24GHz帯の近距離用ミリ波レーダーとセンサーを持つディストロニック・プラスは、電波天文台に干渉するという理由で日本では非対応。(※2009年秋に認可される予定)
-
iPod
接続機能:最近販売された一部車種のみ接続できる。(外部入力端子で対応しているモデルもあり)。
-
SOSシステム:事故時などに、自動的に事故情報と生存者の状況を問い合わせるための音声回路が接続されるシステム。北米で運用されている。
[
編集
]
中古車市場
他の自動車ブランド同様に、メルセデス・ベンツでも中古車が広く販売されており、新車に比べ安価に購入することができる。 しかし日本車と比べ、既出にあるような高級車的イメージが保持されており、現行モデルに限っては値段の下落は比較的少ない。但しモデルチェンジの間隔が長いこともあり、旧モデルや旧々モデル、不人気のグレードはかなり安くなる。新車登録から10年を超えるような低年式車では安価(Eクラスでも100万円以下)のものも多く販売されている。また高年式であっても
残価設定ローン
で購入ができるなど、こうした事実から元来高額なイメージのブランドを安価に手にすることが可能であり、「ベンツは高い」や「金持ちしか乗れない車」という観念は一概には言えない。 実際、多くのユーザーは一般層よりやや所得が高い程度であり、中古車購入による所持が多数を占めている。
[
編集
]
商用車
正規輸入
ディーラー
として
コマツ
、
シュテルン
及びその他ディーラーでの取り扱いが行われていたが、ダイムラー・クライスラーと
三菱ふそうトラック・バス
との関係の強化に伴い、2006年までに日本における輸入販売事業から撤退した。
[
編集
]
バス
|
|
|
|
STS北燈(青森県上北郡野辺地町)が導入したO303RHD
|
|
神奈川中央交通が導入したO530(シターロG)
|
ウェスタン自動車(メルセデス・ベンツ日本総代理店)によって1985年に輸入され、1986年に
宮城野観光バス
に導入されたものが最初である。その後、
日の丸自動車興業
や
岐阜バス
などで導入された。
当初はほとんどが貸切バスとしての導入であるが、
日本急行バス(当時)
では、
名神ハイウェイバス
名古屋?神戸線を中心に「ベンツ特急」と銘打って昼行
高速バス
へ投入した。
1993年に
西日本鉄道
などへ導入された2台を最後に、新車での輸入は途絶えていたが、その後2006年になって、東京都内の新規貸切バス事業者によって、イギリスで使用されていたスーパーハイデッカー「
トゥーロ
」が中古車で2台輸入されており、現在は
日の丸自動車グループ
に売却されている。
路線バス車両については、
大阪市交通局
の小型コミュニティバス(通称「
赤バス
」)にメルセデス・ベンツ・スプリンター(T1N)が13台導入されたのが最初である。また、2007年末には
神奈川中央交通
に連節バス(シターロG)が導入されている。
[
編集
]
多目的商用自動車
様々な特殊パーツを装備できる
ウニモグ
を
ワイ・エンジニアリング株式会社
が販売している。
[
編集
]
現行モデル
[
編集
]
セダン/サルーン
-
Cクラス
【
190E
→Cクラス】(1993年- 3代目)
-
Eクラス
【ミディアムクラス→Eクラス】(1985年- 3代目)
-
Sクラス
(1972年- 5代目)
-
→
初代
、
2代目
、
3代目
、
4代目
、
5代目
[
編集
]
クーペ/カブリオレ
[
編集
]
ステーションワゴン
[
編集
]
ハッチバック/2BOX
[
編集
]
SUV/クロスオーバーSUV
[
編集
]
ミニバン/1BOX
-
Vクラス
【ビアノ→Vクラス】(1998年- 2代目)
[
編集
]
かつての車種
[
編集
]
第二次世界大戦前・大戦中の車種
-
S/SS/SSK/SSKL 通称Sシリーズ。1927年、前身のKシリーズをいっそうスポーティにしたモデル「S」(SはSport(シュポルト)の略)が登場。設計は
フェルディナント・ポルシェ
である。前身のKシリーズのフレームにキックダウンをつけることで低重心化し、エンジン位置も調整したもので、市販車であるがそのままレース出場すら可能な、文字通りのスーパースポーツカーである。Sシリーズはエンジン排気量・ホイールベースの改良により、SS/SSKへと進化。SSKに至っては、1920年代の市販車でありながら、最高速は時速192kmを出すことが可能であったという。日本では、SSKが
ルパン三世
の愛車としても知られている(但し、エンジンは
フェラーリ
12気筒に変更されているという設定)。究極的には、エンジンを当時としては例のない300馬力まで強化し、大幅にストリップダウンされて軽量化したSSKLとなり、最高速は時速235kmに達したが、これはレース専用であり、僅か数台が製造されただけであるとされる。SSKLは、1931年には、伝統の
ミッレ・ミリア
を制したことでも名高い。Sシリーズは、名手ルドルフ・カラツィオラの活躍や、その生産台数の少なさもあり、現在まで伝説のマシーンとして記憶されている。
-
170H
-
540K
ホルヒ
853
と互角に競った、最高のパーソナルカーである。当時、どの自動車会社もスペシャリティモデルはすべてコーチワークをコーチビルダーに任せていたが先代の500K同様、自社でコーチワークを行っている。だがその完成度はコーチビルダーに勝るとも劣らない程であった。又、映画
サウンド・オブ・ミュージック
でもこれのカブリオレBが使用されている。
-
260D 世界で初めて
ディーゼルエンジン
を搭載・市販された乗用車である。
-
770(770K)、 通称「グローサー・メルセデス」と呼ばれている直列8気筒のこのモデルはダイムラー・ベンツのフラッグシップモデルである。主な顧客は世界の王侯貴族や富豪層、そして
ヒトラー
を始めとする
国家社会主義ドイツ労働者党
の高官達である。モデルは初代と2代目がある。国家社会主義ドイツ労働者党では戦勝地でのパレードで国力を見せつけるために使用された、まさにグローサーの名に恥じない偉大なモデルである。このグローサーの初代モデルはかつて大日本帝國の
皇室
で
昭和天皇
の
御料車
として15年以上使用された(ドイツ、Stuttgartのメルツェデスベンツミュージアムで展示)。同じ770でも
ヒトラー
ら
国家社会主義ドイツ労働者党
の高官達のものは、当時のダイムラーベンツ社の技術部長であった
フェルディナント・ポルシェ
開発によるスーパーチャージャー(Kompressor)を追加したものであり、特に
ヒトラー
のものはレーサーのルドルフ・カラツィオラ(Rudolf Caracciola)により納車された。
[
編集
]
大戦後
-
300SL
スポーツクーペ/ロードスター。世界初の
ガソリン直噴エンジン
搭載車。クーペは
ガルウイングドア
が特徴。
-
190E
(W201) 長らく小型車を持たなかったメルセデスが
1982年
に発表、業界を驚かせた。アメリカのCAFE対策で生まれた車。名称も本来メルセデスは排気量を示す「190」がそのまま車名になってしまい、2.3リットルモデルは、190E2.3等とCクラス出現までは変則的な名称となってしまった。デザインは、社内デザイナーの
ブルーノ・サッコ
の手による。ブレーメン工場で初めて生産された。小型化するために世界初の
マルチリンク
(
ポルシェ・928
のバイザッハアクスルが先とする説もある)。本来の目的はラリー参戦とも、アメリカ合衆国で販売する際のメーカーの総排気量規制の結果とも言われる(ラリー参戦については実現しなかったがツーリングカーレースには参戦)。
コスワース
が開発に協力した高性能版『2.3-16』後の『2.5-16』は特に有名で4ドアセダンの高性能モデルの魁となった。オリジナルの2リットル版の他に2.3/2.6リットルの直6や2.5リットルのディーゼルを搭載した車両もあったが、ボディタイプは上級車であるミディアムクラス(後のEクラス)と異なり4ドアセダンのみだった。
バブル経済
時代の日本では5ナンバーサイズに収まることから「
小ベンツ
」と呼ばれもっとも街中で見かけるメルセデスと言うことで揶揄された。しかしサスペンション等、上級車であるミディアムクラス(後のEクラス)との共通部品が多く、いわゆる
ダイムラー・ベンツ
と
クライスラー
の合併以前の「
Das Besten order Nicht
(最善か、無か)」時代のモデルである。
[
編集
]
モータースポーツ
詳細は「
メルセデス・グランプリ
」を参照
[
編集
]
各年代の市販乗用車
[
編集
]
1920年代以前
|
|
1905年:
Mercedes Double Phaeton
|
[
編集
]
1930年代
[
編集
]
1940年代
1940年:
770K Adolf Hitler
アドルフ・ヒトラー
用に改装された770
|
|
[
編集
]
1950年代
1951年:
300
(W186, W188, W189)
1950年代の同社の主力車種である。画像は300d(W189)
|
1954年:
300SL
(W194)
特徴的なガルウィングで知られるスポーツカー
|
1955年:
300SLR
F1カーのメルセデス・ベンツW196を基に製作されたスポーツカー(市販はされていない)
|
[
編集
]
1960年代
[
編集
]
1970年代
1973年:
W116
フロントライトの形状が円形(楕円形)から四角に変わり、印象が変わった。画像は280SEL
|
1976年:
W123
当時のベストセラー車種。特にディーゼルエンジンを搭載した240D、300Dの売れ行きが高かった
|
[
編集
]
1980年代
1982年:
190
(W201)
「小ベンツ」。メルセデスのコンパクトカーの先駆となり、後継のW202以降はCクラスが設けられることとなる。画像は190D
|
1986年:
W124
ヒット車W123の後継であり、「Eクラス」として発売された最初の車である。画像はE500
|
[
編集
]
1990年代
1990年:
W463
SUV車のGクラス。画像はG500
|
1991年:
W140
Sクラス。画像は500SEL
|
1997年:
A180
(W168)
新たなグレードとして設けられたAクラスの最初の車
|
1997年:
W163
新たなグレードとしてMクラスが設けられた。画像はML400 CDI
|
1998年:
SLK 200
(R170)
新たなグレードとして設けられたSLKクラスの最初の車
|
1999年:
W220
Sクラス。画像はS320 CDI
|
[
編集
]
2000年代
2001年:
W203
2代目Cクラス。フロントライトが円形になるなど、外観の印象がソフトになった
|
|
2003年:
E240
(W211)
Eクラスのステーションワゴンとして発売された。
|
2004年:
SLR McLaren
(C190)
F1チームで知られる
マクラーレン
との共同開発で生まれたスポーツカー
|
2004年:
W169
2代目Aクラス。画像はA200
|
|
|
2006年:
W251
新たなグレードとしてRクラスが設けられた
|
2006年:
B170
(W245)
新たなグレードとして設けられたBクラスの最初の車のひとつ
|
2007年:
C200
(W204)
3代目Cクラス。
|
[
編集
]
文献
[
編集
]
関連項目
[
編集
]
脚注
-
^
関連する外部リンク
-
^
-
しかし、メルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンなどが、
1990年代
以降に自社の日本法人を設立し自動車輸入事業務をそちらに移管したことから、現在は自動車輸入事業からヤナセは完全撤退し、自動車輸入事業者としてではなく、マルチブランドメガディーラーとして事業をしている。ピステンプーリー(特殊キャタピラ車両)などの輸入事業やファッション商品事業は継続している。
-
ヤナセの経営多角化については、1990年代初頭の
バブル景気
崩壊とともにほとんどの部門から撤退した。また、創業以来梁瀬一族による経営が続いたが現在は
伊藤忠商事
傘下となっている。
[
編集
]
外部リンク